LUSUP ESSAY
見えない贅沢について
誰にも見えないものは、価値がないのか。
贅沢とは、何だろう。
高価な時計。仕立てのいいジャケット。美しい車。特別な場所で過ごす時間。
私たちは、さまざまなものを「贅沢」と呼びます。
けれど、少し考えてみると不思議なことがあります。
同じ金額を使うとしても、人から見えるものにはお金をかけやすく、誰にも見えないものには、なぜかためらいが生まれる。
15万円のジャケットには納得できても、8万円のアンダーウェアには驚いてしまう。
その違いは、どこから来るのでしょうか。
もしかすると私たちは、自分が思っている以上に、ものの価値を「他人からどう見えるか」という基準で測っているのかもしれません。
他人のための贅沢
人に見られることは、決して悪いことではありません。
気に入った服を着て出かける。美しい時計を身につける。好きな車に乗る。
そこには、自分を表現する楽しさがあります。
誰かから「素敵ですね」と言われれば、うれしい。
人間は社会の中で生きています。他人から認められたいという気持ちも、ごく自然なものです。
だからこそ、ラグジュアリーには長い間、「人からどう見られるか」という価値が含まれてきました。
ブランドの名前も、象徴的なデザインも、ときにはその役割を果たします。
けれど、もし誰にも見られないとしたら。
それでも、私たちは同じものを選ぶでしょうか。
この問いを置いた瞬間、贅沢の意味が少し変わってきます。
自分のための贅沢
誰にも見えないものを選ぶとき、他人の評価はほとんど役に立ちません。
褒められることもない。気づかれることもない。
それを選んだことを知っているのは、自分だけかもしれない。
それでも、良いものを選びたいと思う。
たとえば、肌に触れた瞬間の心地よさ。丁寧につくられたものを身につけているという感覚。誰にも知られなくても、自分だけは知っているという小さな喜び。
それは、他人に向かう満足ではありません。
自分自身に戻ってくる満足です。
見えないから価値がないのではなく、見えないものにまでこだわる自分自身に、価値を感じる。
自分の基準というもの
年齢を重ねるほど、ものを選ぶ理由は少しずつ変わっていくように思います。
流行しているから。有名だから。誰かが持っているから。
そうした理由だけでは、だんだん物足りなくなってくる。
代わりに、
自分は何が好きなのか。何を心地よいと感じるのか。何に時間やお金を使いたいのか。
そんな基準が少しずつ生まれてきます。
その基準は、必ずしも他人に説明できるものではありません。
むしろ、本当に自分のものになった基準ほど、説明する必要さえなくなっていくのかもしれません。
誰かに理解されなくてもいい。誰かに評価されなくてもいい。
自分には、これがいい。
そう言えることは、一つの豊かさです。
贅沢とは、たくさん持つことではなく、自分にとって何が大切なのかを選べることなのかもしれません。
見えないものを選ぶ理由
見えないものには、不思議な自由があります。
誰かの目を気にする必要がないからです。
そこでは、見栄も、流行も、社会的な評価も、少しだけ遠ざかります。
残るのは、自分がどう感じるか。
だからこそ、誰にも見えないものを選ぶ行為には、その人の価値観が静かに表れるように思います。
誰にも見えないところに、手間をかける。誰にも気づかれないところに、美しさを求める。誰にも褒められないものに、時間やお金を使う。
一見すると、少し無駄にも見えます。
けれど、贅沢とは本来、効率だけでは説明できないものなのではないでしょうか。
必要だから選ぶのではなく、心が満たされるから選ぶ。
役に立つからではなく、それがあることで、少し気分がよくなる。
そんな余白を自分に許すことも、贅沢の一つだと思います。
他人から認められるためのラグジュアリーから、自分自身の基準を確認するためのラグジュアリーへ。
どちらが正しいということではありません。
ただ、誰にも見えない場所にも贅沢が存在すると気づいたとき、私たちが選べる豊かさは、少し広がるように思います。
誰にも見えないものを、何によって選ぶのか。
そこには、その人自身の基準が、静かに表れるのかもしれません。